相手の肩書き批判は意味がない理由

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よく相手が自分の思い通りにならないと、相手に対して「〇〇なのにそんなんじゃ情けない」とか、「○○のくせに」、「それでは○○としてどうなのか」など、相手の肩書きについて批判します。
誰でも、世間の色々な肩書きについて理想を抱いているために、相手が自分の思い通りの肩書きではないとわかるとイライラして、批判したくなります。しかし、単純にそのような批判ばかり繰り返して何か意味があるのでしょうか。何かが変わるのでしょうか。
今回はそのような行為に意味がないことを説明してきます。
よろしくお願いいたします。

誰でも相手の肩書き批判をしたがる

とにかく誰でも相手の肩書きを批判したがります。周りや世間に過度な期待をしているから、自分の理想通りではないととにかく批判します。
しかし、よく考えてみてください。どうしてそんなに批判ばかりするのでしょうか。それは自分の人生に不満があるからです。自分にゆとりのある人はそんなに世間に願望を持ちませんし、他人に対してもそんなに多くを求めません。
そもそも、自分も相手の理想通りの肩書きになれないのになぜ相手の肩書きばかりに願望を抱くのでしょうか。自分も欠点を直せないのに相手にばかり求めるのは意味がありません。建設的ではありません。

理想の肩書き通りの人は存在しない

先ほども説明しましたが、自分の理想通りの肩書きの人というのは、世間を見渡してもほとんどいません。どのような人であっても、何らかしらの欠点を抱えて生きています。それが現実です。
世の中というのは、お互い中途半端な人間同士がどう助け合って物事を前に進めていくのか、ということが重要なのであって、相手が自分の理想通りの肩書きではないからと言って批判を繰り返すことではありません。そんなことしても、世間的に何も進まないでしょう。むしろ、モラルは低下し続けています。
モラルは低下し続けているのに、世の中は未だに理想ばかり言っているのです。

そもそもなぜ肩書き批判をしたがる

これは本当に自分の経験と身近な周りの人を見て思ったことなのですが、元々は親に対する願望から来ているのではないでしょうか。
本来は、成人した時点でもう親に対する願望は言わないほうが良いと思われますが、実際にはそうではありません。いい年になってもまだ親にこだわっている人が世の中たくさんいます。
そして、いい年をしてもまだ親に願望を抱いている人は、大体世の中や自分の周りの人に対しても「こういう肩書きはこうあるべきだ」という願望を連呼しています。もうキリがありません。
肩書きというのは一度取り払うほうが、その人の実力がよくわかります。肩書きを考えると人はすごく幻想を抱いてしまうのです。このため、本当に肩書きを考えないでその人を見てみると、今まで自分が幻想を抱いていたことがよくわかります。これが「肩書きマジック」なのです。本当に意味がありません。

全体的に肩書き批判をしていくとどうなる

今も世間的にはすでにそうなっていることが多いのですが、もし誰もがお互いに肩書き批判をしていくと、もはや他人に弱音を言える人がいなくなります。そして、自分でそういう世界にしたのに「世知辛い世の中だ」とボヤキ始めます。
人は相手に理想を言えば言うほど、自分も手を抜けなくなりますし、弱みを見せることもできなくなるのです。
世の中を敢えてギスギスさせることは何も意味のないことです。

肩書きよりも最低限のマナーのほうが大事

これまで指摘してきたように肩書きに理想を抱くのは本当に意味がありません。それを言うのであれば、1人1人が最低限の社会的マナーを身に着けてそれを守ることから始めればいいんです。
実際にそれすらもできていないので、最初から高望みしても何も得られないでしょう。現実として今まで世の中はそうだったはずです。
自分の期待通りの世の中ではなかったはずです。それは、基本をすっ飛ばして高望みばかりしてきたからです。基本を疎かにしてはいけません。

まとめ

肩書きは本当に面倒くさいものです。誰もが自分の肩書きは気にしないのに人の肩書きは非常に気にします。肩書きを利用して自分の思い通りにしようする輩も多いので、肩書き批判をしたがるのはわかりますが、キリがありません。それよりも、肩書きを利用して言ってくる人に「NO」という意思をぶつけられることのほうが大事です。難しいことですがお互い頑張りましょう。今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。